出張撮影先は、過去でした。
「あの頃は良かった、ではなく、あの頃が有って良かった」byおいら
蝉の第一声を聞き、夏の訪れを感じた先日、防水加工されていないカメラが汗で水没同等の境遇に追い込まれるんではないかと思っとります。更になぜだろう、5日間連続で道を尋ねられました。ども、カメラマン大野です。
そいえば昔友人にも道を尋ねられた事が有ります。
「今後進むべき道が解らない」と。それはおいらも解らない。
「道」という言葉は色々に例えられ、それこそ人生そのものを表現する言葉にもなっています。
道から連想されるモノが、車通りの多い都心部なのか、はたまた田舎のあぜ道なのか。よしんば、おかれてる境遇と離脱の妄想なんだろう、と。
どちらにせよ、前進のイメージの強い言葉だと思うのですが、時に振り返り辿ってきた軌跡を見つめ直すのも大切だな、と。
それぞれ自分の歩んできた道には沢山の足跡がついていると思います。寄り道したり、逆行してみたり、はたまた、別の誰かの足跡が有ったり。
たまに気付くのが、まだ見ぬその道に、既に自分の足跡が有る時。
はて、ここは来た事があったかな?なんて思う訳だが、覚えは無い。
あらかじめその道を知っていて、既に歩いたつもりになっている、只それだけの事なのかもしれないし、来た事を忘れてしまっているのかもしれない。
今目指して歩んでいる道の上には、今迄つけてきた足跡が集まって、見た事無い形の足跡を形成している。
靴のサイズも靴の形も変わり、まだ見ぬ方向に新たな軌跡を作っていくんだな、って。
履き潰してきた靴の数と同じだけの夢達。なんかの歌の歌詞に有った言葉。
靴を大切にする事を覚えたりして、昔程履き潰す靴の数も多くはないと思うし、余り動かなくとも情報・知識が得られ易い世の中にはなったけど、これからもかかとをすり減らす事で得る事の大切さを忘れずに進みたいな、と。
写真をはじめてからは、人の足跡を撮る事も多くなった訳で、その人がつけてきた沢山の軌跡を今その瞬間に一枚の写真で表現する。なかなか簡単な事ではないな。
それでも、その人の歩んでるその道の上で、共有する時間軸上で写真を撮らせてもらうってのは、少なからず、その瞬間、同じ道に足跡を付ける事になる訳で。
それは一緒に同じ方向を見てぐぐっと進む訳ではなく、しっかりと向き合いむむっと対峙する姿勢に相なる。
その人が後ろに背負ってきた様々な物と向き合い、対話するに他ならない。
写真家は、常にモデルとなる人と、レンズを通して話をしているのだ。
着地点となる写真が現像された時、またゆっくり進み始める時間を考え、その人がつけていく足跡を眺める事が出来る。そんな感覚。
見栄えの綺麗な写真を撮るのは簡単だ。
只、本当に綺麗な写真を撮りたかったら、見据え・そこに見い出し・今を撮る。それぐらいで当たり前なんだろう。机上の理論でもなければ空想の理論でもない。
と、まぁ終着点の無い話になってきましたが、知らない人が他人の人生の写真を撮るという事は、つくづく素晴らしく、少し不思議な話だなぁ、って。
かの1なるものを永遠にして、多に分かたる、しかも1にして、永遠に唯1つなり。1の中に多を見出し、多を1のごとく感ぜよ。さらば芸術のはじめと終わりを会得せん。って。
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