そしてこれから。

どーも、フォトグラファーの大野智嗣です。

なんだか、写真ってなんだべさ、と思った事による考察。

誰もがカメラを携帯し、事あるごとに撮影をする。一日に信じられない程の写真が消費され、一枚の持つ価値は、無いに等しいかもしれない。

例えプロの撮るそれも、携帯のソフトで自動編集された写真より評価が高いとは限らない。

最近のプロの作品で世界的評価をうけた手法なんて、インターネット上にある写真を自身で加工したモノを発表しただけ。
寧ろ、自身で写真を撮りにいかなくても、すでに写真は有る。
危険を冒して山に登るでもなく、空からダイブするわけでもない。

只、パソコンの前に座り、ひたすらに画像を検索するだけ。

それが簡単とか、自分の写真では無い、、とかではなく、それこそが今の時代の写真作品なのかもしれない。

有る日本の写真家が発表した新作は、題名に風景という言葉が入っている。

その写真集は、風景写真なのだけど、大半がただの風景写真ではない。

パソコンの画面上で表示される風景や、パソコンの画面に表示されるマップをキャプチャーしたもの。

ある意味、私達の見ている風景は、全て電子化されていて、目から入る情報以前に、全て事前に知り過ぎていて、もう事実は見れなくなっているのかもしれない。

それでも、自分で写真を撮るという意味を持たせるとなると、いったいなんの必要が有るのだろうか。

モデルを前に人間が撮る写真。その対話から生まれる表情なり、空気が写真を人が撮る意味だ、という人もいる。

しかしながら、表情もなにもかも、後から加工ソフトを使用すれば、人間一人を足すくらいの事が出来る。不自然な表情なら、自然にすればいい。

風景にしても、いらない物は排除するし、いる物は後から加えていく。
もう、写真には真実なんて写っていない。

カルティエブレッソンの言うところの決定的瞬間は、今や仕組まれ、電子化されている。

その中、本当に意味の有るのは、写真そのものでは無いと思うようになった。

良い景色に出会い、写真を撮りたくなる。

そんな感覚に極めて近く、写真を撮られていた時間そのものを写真に封じ込める。
完全にその時が有ったという、記録を一枚の写真に託す。

今後それすらも変わっていくかもしれないが、現在人が写真を撮るという行為は、その気持ちと時間なんだろう、と。

時代は変わり、写真で残す必要が無くなっていくかもしれない。

只、まだまだ写真を撮る・撮られるという行為自体に必要性が有る以上、その場所に立っていたという事実をより写真という形で表現出来るよう考えていきたい。

写真には、瞬間を閉じ込め、一瞬にして現実を過去のモノにする力がある。

絵画にしても、文章にしても、写真のそれとは違い、決して時間を封じ込めるような力はない。

動画のように動かないものだからこそ、確かにそこに立っている確証が有り、写真の存在する理由と共に、確実なその時の時間が写る。

写真はきっといつか別の形になってしまうだろう。

でも、今撮った写真は、無くなる事はない。
今一緒に過ごしたこの時間と共に、確実に封じ込められて、またいつかそれを見るときに、時間は動き出す。

かけがえのない瞬間と共に。

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 LeicaM8+summicron3.5cm

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